読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

一二三四五六七

その時に感じたことを書きたいです。

僕の誕生日に、友人が自殺した。正確には自殺未遂になってしまって今もまだ病院に居る。

 

結局は死んでないから自殺ではないと思う人がいるかもしれない。

実際に死ぬこと、それが自殺の重要な構成要素になっていることに疑いはない。

けれど、自身で死ぬことを決めてそれを十分達成できるだけの試みをした、このことが自殺ではないと僕にはどうしても言えないのである。

 

 ここで少しその友人との関係性について書いておく。そうでなければ意図したいことがうまく伝わらない気がするからだ。

 友人と言っても、現実世界のというよりはネット上のそれに近い。

彼(彼女)と知り合ったのはバッググラウンドが近く、趣味も近かったからだ。相手の所属を知っている上でSNSを介して緩くつながり、少しリアルでも会う、そんな感じの関係だった。仲良くなったのは本当にふとしたきっかけからであり、気の置けない友人とは成立しないような、相手のことを慮りつつ絶妙な距離感を手探りしあう時期特有の、少しの気まずさとくすぐったさが綯い交ぜになった感情を、ずっとやりとりの度に抱いていた。

なんといえばいいのだろうか。ともかく、良い意味で急所には触れあぐねるような関係だった。僕はこの距離もいいと思っていたし、相手もそうだったのではないかと勝手に思っている。

 

 

 そんな彼(彼女)が自殺したことを知ったのは、ネット上の近しい人に向けて予約投稿されていた遺書によってだった。

どうしても文脈を切り取らざるをえないが、一番思うところがあったのは下の内容について書かれていた部分。

 

"本当に自殺したい人に対して簡単に『生きていてほしい』『死んだらダメだ』などという方が身勝手であること"

 

 

彼(彼女)に自殺することを話されていたら僕ははどう返していただろうかと夢想する。

「死にたいと自分が本当に思うんだったら、やっぱり死ぬしかないんじゃないのかな。」

こう返すような気がする。気がするというか、こう答えるだろうという確信がある。

自分自身の考え方からなのか、彼(彼女)との関係性がそう答えさせるのかは、今になってはもうわからない。

 

でも、その人が感じていること、その感情を否定することは誰も出来ないことだと思う。別に『生きていてほしい』とか言う人に憤りを感じるとか、理解できないということではなくて、単に自分はそう思っているというだけのことで。

 

人が感じたものやその時の感情というのは当人にとってはどこまでいっても真実でしかないんだという思いが強い。そこにしか真実はないんじゃないかと、最近はふと考えたりもする。

 

 

 

『生きていればいいことがある』なんて嘯く人は、真にそう思って言葉を発しているようで嘘をついているような節は見受けられないけれど、そういうことを臆面もなく言うことは全うでまともな人間にだけ許されるのだと思っていた。でも、もっと親しかったのなら伝えずともそういう類のことを思えていたかもしれない、と想像できたことは、もう無理になってしまった僕にとっていくらかの慰めになった。そう思えたことは自分にとって一切の嘘偽り無い本当に真実のことで、真摯に差し出せる唯一のものだった。

 

人生というものが自分の手には有り余るもので、どうしようもなく無理になってしまう人がいる。これは社会的に見れば一切のムダも挫折もなく楽に切り抜けているように見えようが、当人にとっての感じ方の問題である。

ある日、自分の身体がどうしようもなく社会とか人生とかに必要な能力を失ってしまったことに気がつく。わかりやすく言えば、薬が無いと明晰な思考を維持するのが難しかったり、外に出られなくなったり、ある種の衝動を抑えられなくなる類のものだったりする。無論、無理になってしまった人にはわかりやすいものがある人もいるだろうし、ない人もいるだろうが、概ねそういう感じなのだと思う。

 

 

別に分かってくれとか、分かってくれない貴方が悪いとか、そういうのではなくて、単に「のうのうと生きていられる奴にこの苦しみがわかってたまるか。」とそう思うのです。分かってくれとも理解してくれとも言わないから、分かってたまるかということくらいは、身勝手だと知りつつも胸に抱えて生きていっても許されるのではないかと、そういう甘い期待なんてものがあるんです。

 

人生には得手不得手があって、人生に不得手な人がいるということなんです。