一二三四五六七

その時に感じたことを書きたいです。

瀬戸口廉也作品をプレイして思うこと。

世界は残酷で恐ろしいものかもしれないけれど、とても美しい。

思えば、そんなこと、僕らは最初から知っていたはずなんだ。

ー『CARNIVAL』/PROLOGUE

とても好きなライターのひとりに、瀬戸口廉也という人がいる。

『CARNIVAL』『SWAN SONG』などのシナリオを担当しており、美少女ゲームとしては2007年発売の『キラ☆キラ』が最後となっていた。

そんな状況であったが、どうやら瀬戸口新作が2本も出る予定らしい。

別名義での小説はリリースされていたが、このニュースに1ファンとして純粋に驚いた。

『キラ☆キラ』の正統後継作品であるらしい『MUSICA!』のCFを直前に控えたタイミングであるし、瀬戸口作品をプレイして思うことを綴ってみたい。

とりとめもなく散らばっているけれど、頑張ります。 

 

1.瀬戸口作品に見られる共通点

瀬戸口作品には、幼少期に虐待*1と呼ばれるに値する行為を受けたキャラクターが登場する。もう少し広げると、幼少期の物事が原因で何かを抱え続けてる人間になる。

 

これらの人物に共通するのは

「極限状態やボロボロになった状態で初めて、『人そのもの』や『世界そのもの』を発見」し、「それを切実に求めたり強く肯定する」という点だ。

以下は、『CARNIVAL』小説版で、精神病が進んだ学が明晰な思考もできないほど限界状態であったシーン。

突然僕は感動してしまった。忌まわしい僕の歪んだ想念の皮膜を剥ぎ取った、ありのまままの世界は、こんなに静かで美しいものだったのか。ため息が、胸の中にあった何か固くて苦しいものを一瞬で砕いてしまった。

(中略)

僕と世界の間に、再びあの気色悪い膜が姿を現してくる。僕の感覚をノイズが汚し、たった一瞬だけ開いてくれた世界は、再び閉じ始めてしまう。今あった全てを肯定してくれるようなこの不思議な感覚を、僕はもうすぐ忘れてしまうだろう。

ー『CARNIVAL』/CHAPTER-5

 

SWAN SONG』でも、全身怪我だらけでボロボロになった尼子司は、今際の際にあろえが作ったキリスト像を突き立て、それを世界に見せつけた。

神の子なんか関係ない。これは、いまはもういない僕の友達がその小さな両手で丹念に一つ一つ組み上げた手あかのついた石のかたまりだ。僕は誇らしくてしかたがない。だから、絶対に立ててやる。そして、このやたらにまぶしすぎる太陽に見せつけてやるんだ。
僕たちは何があっても決して負けたりはしないって。

ー尼子司/『SWAN SONG

 *ここでは、手あかのついた石のかたまり=人間への賛美、太陽に見せつけてやる=世界への抗い という対応になっている。

詳しくは以前に書いた記事参照。


また、『キラ☆キラ』では「極限状態やボロボロの状態になり、その中で世界に抗うことで、本当のものに到達できる」という描写がみられる。

主人公である鹿之助が、テニスを上達せねばという強迫観念から自律神経失調症によるパニック発作で倒れてしまったシーン。無理なことはわかっていたが、もう治ったと嘘をつき過酷な練習に身を投じ続ける。

日々心と体が消耗してゆくのを実感しながら練習を続ける。夜には、体中が無数のイモ虫に食い荒らされる悪夢をよく見た。太陽から見放された暗く湿った森の中を、出口もわからず、休憩もとれぬまま、一人さまよい続けているような気持ちだった。しかも僕がそこで探しているのは出口ではなくて、もっと奥の深みだった。

その深みの向こうに、新天地があると考えていたのだ。

(中略)

とにかく、その時の僕は、奇妙な興奮に彩られたそれまで体験したことのない幸福感に浸されながら、自分一人の世界の内側へのめり込んでいったのである。

ー前島鹿之助/『キラ☆キラ』

 

さて、虐待児を描いた、より詳しく言うなら、虐待児"が"描いたと思しき別の作品でも、これらと似たような描写がみられる。

「極限状態やボロボロの状態になり、その中で世界に抗うことで、人はより人らしくなれる」というものだ。

本記事では、その作家として中村文則を挙げる。以下は、主人公が飛び降りようと階段の踊り場から身を乗り出して落下するシーン。

落下していく最中、私の意識はある到達点までいくだろう。私は自分を落下させた加害者となり、被害者となる。不安と恐怖の向こう側に、何かを見るだろう。それを見ることができるのなら、何をしてもいいような気がした。地面に衝突していくまでの時間、もう絶対に取り返しがつかないと知った瞬間、私は圧倒的な後悔で身体を貫かれるだろう。落ちていきながら、宙を摑むように手を動かし、回転する身体を、そうしたところで何の効果もないのにもかかわらず、一定に保とうともがくだろう。地面が近づいていることを確実に予感しながら、私は世界の全てを恨む。絶対に助かることのない、あと僅かで確実に死ぬ存在である自分から、抜け出そうともがくのだ。その圧倒的に自分の全てを支配する力を体感しながら、私は核心に近づく。私は、予感しているのだった。私はその中で、もっとも私らしくなるのだろうと。

─『土の中の子供』/中村文則

 

大事なのは、虐待児にとって世界とは何かしらのヴェールに覆われた存在であり、ボロボロの状態になることで初めてそれを剥ぎ取られた世界に出会える、ということである。

そして当人にとって、その世界はひどく、美しい。

 

瀬戸口作品では、"歪んだ想念の皮膜"、"あの気色悪い膜"という表現が"ヴェール"に対応するものとして用いられている。

 

では、似たような描写がある作品にはどのようなものがあるのだろうか?

その一つとして、「実存主義文学」が挙げられるように思う。

「ヴェールに覆われた世界からそれを剥ぎ取る」「その中で世界に抗う」という描写が実存主義文学にもみられることを次節以降で扱っていく。

 

2.実存主義

実存主義」なる耳慣れない単語は何を意味するのだろうか*2

Wikipediaで調べてみると、「人間の実存を哲学の中心におく思想的立場」とある。

実存(existentia)とは現実存在の略語であり、本質存在(essentia)と対比される言葉らしい。

つまり、現実存在は「存在しているもの自体」であり、本質存在とは「存在しているものの意味」である、と言える。

サルトルのかの有名な言葉を引用し、実存主義の主張を削ぎに削ぎまくって非常に簡単に表現すると、「実存は本質に先立つ」のである。

 

例えば、ここにおっぱいマウスパッドがある。おっぱいマウスパッドを作るときに、人はまずおっぱいマウスパッドの用途(本質存在)を考えてから、実際におっぱいマウスパッド(現実存在)を作り上げる。ここでは「本質が実存に先立つ」ということになる。

 

しかし人間はそうではないと、実存主義は主張する。

人間は、まず何の意味も目的も付与されないまま、現実存在としてこの世に生まれ落ちる。それから、生きていく中で自分の本質存在が、自分や周囲の人間によって構成されていく。

つまり、人間において「実存は本質に先立つ」のであり、おっぱいマウスパッドとは真逆である。

これが、実存主義である。*3

 

浅学であり哲学としての実存主義について多くを知らないため、一旦ここまでにしておいて、そろそろ「実存主義文学」と呼ばれる作品群について触れていく。それらをいくつか読む中で感じた事を足掛かりに、実存主義の一側面を自分なりに捉え直していくことが次節の目標となる。

 

3.実存主義文学

虐待児による作品と実存主義文学の共通点として「ヴェールに覆われた世界からそれを剥ぎ取る」ことが挙げられるのだった。

さて、"ヴェール"とは一体何を指すのか、それについて少し考えてみたい。

実存(存在しているもの自体)を覆っているものとして一番先に思いつくのは、やはり社会的地位や立場だろうか。

人はみな、無意識かもしれないが自分の形式に依存して生きている。それは、学歴・資格・業績といった社会的地位であったり、よりミクロなレベルでは契約関係・交友関係・親族関係・婚姻関係であったりする。「自分はかつて〇〇大を卒業して□□を成し遂げた人間だ」「自分は〇〇と、□□という約束をした」「自分は〇〇の知り合い(家族)だ」という形式があるからこそ、それらを前提として生活することが出来ている。

これらを社会的形式と呼ぶことにすると、人間の実存は普段、社会的形式に覆われていると言えるだろう。

 

これは人だけに限った話ではない。モノであってもただ存在するだけではなく、生活の中では名称や利用目的などによって意味づけられている。例えば、「これはハサミという名前で、切るための道具だ」といった共通認識が、ハサミにとっての社会的形式を生み出している。このように、人もモノも満遍なく覆いつくしている社会的形式というヴェールを一つ一つ取り払っていくことで、漸く人や世界そのものという実存が表出してくるのである。

 

 

実際の実存主義文学において、ヴェールはどのように描写されているかを見ていこう。

まずは大御所であるジャン=ポール・サルトルの『嘔吐』から有名なシーンを取り上げてみたい。

主人公であるロカンタンが、公園のベンチに腰かけ、マロニエの木の根を見つめながら「本質は全て人間によって規定された物だ」ということに気付き、吐き気を覚えるシーン。

私はさっき公園にいたのである。マロニエの根は、ちょうど私のベンチの下で、地面に食いこんでいた。それが根であるということも、私はもう憶えていなかった。言葉は消え失せ、言葉と一緒に物の意味も、使い方も、人間がその表面に記した微かな目印も消えていた。……普段、存在は隠れている。しかし存在はそこ、私たちのまわりに、私たちのうちにある。存在は私たちである。口を開けば人は存在について語らずにいられないが、しかし結局、存在に触れようとはしないのだ。私が存在について考えていると思っていたときにも、実は何も考えていなかったと思わなければならない。……存在はとつぜんヴェールを脱いだのである。存在は抽象的な範疇に属する無害な様子を失った。

─『嘔吐』/J-P・サルトル(鈴木道彦・訳)

普段、実存は言葉や意味といった「ヴェール」に包まれ守られている。しかし、その「ヴェール」による隠蔽に気付き、それを剥ぎ取ってしまったロカンタンは、実存そのものの露出を目の当たりにする。そして、彼自身もまた「ヴェール」によって覆われた存在であり、その「ヴェール」を剥ぎ取られてしまえば、何の拠り所もない存在であると考える。こうして、ロカンタンはマロニエの木の下で吐き気に襲われる。

 

同じく実存主義者として知られるカミュは『幸福な死』において、同じ考えを異なった視点で眺めている。この物語の主人公メルソーは、『嘔吐』のロカンタンとは異なり、自らその「ヴェール」を剥ごうとした。

 

唯一の肉親である母親の葬式の翌日に、母親と共に住んでいた家の中に佇む場面である。

かれは、この住居と貧乏の匂いに執着していた。少なくともそこではかれは、かつての自分とまたつながることができた。そしてかれが意図的に自分の姿を消し去ろうと努めていた或る生活のなかでは、こうした深いで忍耐のいる比較対照のおかげで、かれはいまでも自分を、悲しみや悔恨の時間にいる自分とくらべることができたのだ。

(中略)

かれは、自分になんの努力も要求しない住居の暗い影のなかを歩きまわるのだった。ほかの部屋だったら、かれは、新しいものに慣れなければならなかったろうし、そこではまた、闘わなければならなかっただろう。かれは世間に身を晒しているうわべの部分を少なくしようと思っていたし、一切が燃えつきて眠っていたかった。

─『幸福な死』/カミュ(高畠正明・訳)

 この部分では、世間によって自分に付与される意味という「ヴェール」を自ら剥ごうとしている様子が窺える。カミュの別作品である『異邦人』にもこのような傾向は見られる。ムルソーも自ら世の不条理に歩み寄り、そしてその不条理を愛した。

 

また、最初に挙げた虐待児を描いた作品にも次のような描写がある。

その時、不意に周囲に拡がる世界を巨大なものに感じた。田園となって広がる地面や、灰色の雲に覆われた空や、道路や、見えないはずの空気までが、どこまでも巨大に、圧倒的な存在感をもちながらそこにあるように思えた。世界は、その広がりの中に私という存在を無造作に置いたままにしている。私はあまりにも無力であり、私の全存在をかけたところで、この世界に僅かな歪みすら加えることはできない。世界は強く、無機質にただ広がり、私を見ることもなく存在していた。死ねばいい。死んだところで、世界は私に気を止めることなどない。死は他の全ての事柄と当価値であり、この広がりの中では、大した意味など有していない。世界はやり直しの効かない、冷静で残酷なものとして私の面前に広がっていた。

─『土の中の子供』/中村文則

この主人公も『嘔吐』のロカンタンと同じく、裸の、ありのままの世界を眺めていた。ただそこには無機質なものが広がるばかりであった。自分はただの存在であり、それ以外に何の意味も持たなかった。

 

 このようにしてみると、虐待児を描いた作品と実存主義文学と呼ばれるものにはやはり、「ヴェールを剥ぎ取られたありのままの世界と出会う」という共通点があるように思われる。*4

 

 次に、なぜ実存主義文学と似た描写が生まれるのかということについて考えてみたい。

 

4.虐待児と自己同一性

……あなたは、愛されなかったのでしょう?小さい頃に、愛されなかったのでしょう?……たったそれだけのことなのに、こんなにも大変なことになる。

ー『迷宮』/中村文則

ここでは、虐待という暴力により自己を疎外視した自己同一性を獲得する場合があること、そして、自己の希薄性もまた実存主義文学との共通項として見出せることを述べる。

 

自己同一性の内容は「社会的自我(自分は〇〇という人間である)」と「実存的自我(自分は自分としてここにいる)」に分かれており、まず社会的自我が形成されてから実存的自我が発見されると言われている。

 

幼少期に虐待を受けた人間、つまり、もっとも身近かつ最初の他人である親との接触が暴力というひどく外部的な形であった人間は、『自分=「他人ではない人間」』というような社会的自我を獲得する傾向にあるのではないだろうか。

これは、『他人=「自分ではない人間」』として通常社会的自我が獲得されるのと真逆である。

 

このような事が読み取れる箇所を、虐待児を描いた作品からいくつか取り上げてみたい。

そもそもなぜ彼らは私に暴力を振うのか。その疑問について、考えたこともあった。だが、幼かった私が行き着いた結論は、彼らが私ではなく他人だからだ、という、単純なものだった。色々と理由はあるのだろうが、少なくとも、彼らが私自身だったなら、私に対してこのようなことはしない。私以外の存在、それが何をしても不思議ではないし、どのようなことをする可能性もあるのだと思った。「他人だからだ」蹴られる度に、私は頭の中でそう呟くようになった。

─『土の中の子供』/中村文則

この場面では思考が自分ではなく他人から開始しているように感じられる。自分というものがひどく希薄なのだ。そして、それは暴力という外部からの直接的で支配的な圧力によって引き起こされている。

 

別の場面でも同じような描写がみられる。

幼少期の虐待から逃れた直後に過ごしていた保護施設を再び訪れるシーンである。主人公は施設長と話をしているといきなり幻聴が始まり錯乱する。

彼は「落ち着け」と叫び、両肩を鷲掴みにし、私を酷く揺さぶる。彼は私を両腕で捕え、そのまま締め上げようとした。彼の肌が、私の肌に重なる。私は「他人だ」と叫び、逃れようとするが動くことができなかった。他人が、私に密着している。密着し、私の中に、入り込もうとしている。恐怖で身体が震え、肌の内側から染み出るような嫌悪感が、強烈な寒気となって私の身体を侵食する。「他人だ」「他人だ」視界が薄れ、喘ぐように叫びながらもがき続けた。
─『土の中の子供』/中村文則

恐らく、健常人が日常生活を送る中で、他人が接触してきても「他人が入り込んでくる」感覚というのはまず抱かないはずである。自身の中身が空っぽであるからこそ、主人公は他人がその中に流入してくるような恐怖を覚えたのではないだろうか。

 

また『CARNIVAL』の中でも、自分の存在を無に等しく感じている箇所がある。

自分がいるとはっきり感じたこともないし、もちろん、自分はいないなあ、と、思った時点で、思う自分がいるわけで、どっちかといえばいるんじゃないかな、そう思うけどなあ。

でも、こんなに強く「いない、いない」と言われていると、なんだか本当に自分はいないような気持になってくるから、世の中というものは不思議だね。

ー木村学/『CARNIVAL』

 

自己の疎外視は様々な形で表現されるが、主な類型として自己肯定感の異常なまでの低さ(自分を無価値とみなす)・自罰感情・虚言癖などが挙げられるだろう。

他人に暴力をふるわれるのは、生まれてから初めてのことで、身体に痣も出来るし、確かに痛みは大変なものでしたが、特別苦痛のことのようには思われませんでした。

私はそういう扱いをされて当然のことをしてきたし、それだけのことです。

もちろん、武君はそれを知って、それに対して罰を与えているわけではないのですが、なんだか私は、ずっと発見されないでおかれた罪に、やっと正当な罰が下されているように思えました。

ー木村理紗/『CARNIVAL』

これらのことは、たびたび嘘をつく学や、いじめられているのに一切やり返さない状況、自分は助かるべきではないという理紗の心情描写など、様々な場面で見受けられる。個人的には、理紗が物事の判断基準を学に委ねたがるのも、同じようなところに端を発しているように思われる。

 

また、当然かもしれないが実存主義文学においても自己の希薄性が読み取れる描写がしばしばある。

例えば、カフカの『変身』。

カフカが自らを投影したと言われる、主人公のグレゴール・ザムザは、ある朝目覚めると巨大な虫になっていたが、そのことによって家族から疎まれていることを感じて、最終的に率先して自らの消滅を望み、死ぬのだった。

自分が消えてしまわなければならないのだという彼の考えは、おそらく妹の意見よりももっと決定的なものだった。こんなふうに空虚なみちたりたもの思いの状態をつづけていたが、ついに塔の時計が朝の三時を打った。……彼の鼻孔からは最後の息がもれて出た。

(中略)

 「これで」と、ザムザ氏(注:グレゴールの父)がいった。「神様に感謝できる」……彼ら(注:グレゴールの父と母と妹)は今日という日は休息と散歩とに使おうと決心した、こういうふうに仕事を中断するには十分な理由があったばかりでなく、またそうすることがどうしても必要だった。……それから三人はそろって住居を出た。もう何ヶ月もなかったことだ。それから電車で郊外へ出た。彼ら三人しか客が乗っていない電車には、暖かい陽がふり注いでいた。……三人の仕事は、ほんとうはそれらについておたがいにたずね合ったことは全然なかったのだが、まったく恵まれたものであり、ことにこれからあと大いに有望なものだった。

─『変身』/フランツ・カフカ(原田義人・訳) 

グレゴールが死んだ後の家族の様子もすさまじい。人が死んだ素振りなど一切ない。グレゴール(≒作者であるカフカ)という邪魔者がこの世から消え去ることによって、新しい生活が始まり、世界の開ける様子が鮮明に見えてくる。自己の希薄さがここにも見られる。

 

この節で見てきたように、自己の確立が出来ていない幼少期の虐待は、暴力という支配的な外圧を通して自己を疎外視することに繋がり、その影響で「ありのままの世界」観に一歩近づくのではないだろうか。また、自己の希薄性は実存主義文学においても同様にみられるものである。

 あくまで一つの仮説ではあるが、この自己の希薄性という共通点は、虐待児の描く作品と実存主義文学が「ヴェールに覆われた世界からそれを剥ぎ取る」という似た構造を持つ強い理由のように思われる。

 

以上が本記事の総論部分である。

 

最終節では、実存主義の表われ方という観点から瀬戸口作品を個別に見ていければなと思う。

 

5-1.『CARNIVAL』:原風景

そういったことも、他のことも、あのころのことは、みんな、みんな、妙にはっきりと覚えています。

ー『CARNIVAL』

今までの内容をざっとまとめると、虐待児が描く作品と実存主義文学の両方に「ヴェールに覆われた世界からそれを剥ぎ取る」という描写がみられ、それは自己の希薄性という共通点に端を発するもののように思われる、ということだった。

 

まずは『CARNIVAL』を取り上げ、その中で実存主義文学などとは少し異なる点を挙げる。

その差異とは、実存主義文学や中村文則の作品では『ありのままの世界=「意味というヴェールが剥がされ実存が露わになった世界」』だったのに対して、CARNIVALでは『ありのままの世界=「美しく、郷愁を誘う幼少期の原風景を思い出した世界」』であることだ。

 

生きていくうえでは辛くなるからと、忘れてしまった、もしくは、忘れようとしてきたもの。しかしそれらは、小さい頃、まだ何も知らなかった時代のまぼろしなんかではなくて、いまでも見ることができるずっとそこにある変わらないものだった。

ボロボロの状態になってからこのことに気が付き、世界を肯定する。

小説まで含めた『CARNIVAL』はこのような終わり方になっており、読後感にも強く作用している。

 

原風景を通じた世界の肯定は、過去への郷愁を伴い、プレイヤーの胸に強く響く。

それは実に鮮やかで、ほぉと息をつくような美しさがある。

頬に押し付けた畳の匂い。古い紙の香り。狭い部屋の中で夢中になって本を読み漁った時に感じた世界の広さ。辛く長い現実を生きていくうえで忘れてしまった光景や忘れざるを得なかったこと。

そういったものをボロボロになった状態でふっと思い出し、醜く汚い世界となんとか折り合いをつけようとする。『CARNIVAL』は、そんな肯定の物語であるように思う。

何故、こんなにはっきりと覚えているのでしょう。

どう考えても、三歳頃までしか、私はそこにいなかったのに。

遠くには山が連なっているのが青く見えます。昼を過ぎると太陽に乾かされた土の匂いがします。陽が陰ると豊かな森林の方から爽やかな風が吹き、家に入ると広い畳の部屋がが連なり、床の間には水墨画の掛け軸が掛かっていて、横になって畳に頬をつけると鼻先に井草のしっとりとした香りがして、私はその香りを嗅ぐと、安らいだ気持ちになれました。

そうしてよく部屋の真ん中に寝ころんでいたのですけれど、その姿を厳格な祖母に見つけられると、「みっともない格好はやめなさい」と叱られました。

それでもやっぱり私はあの匂いが好きで、誰もいないときこっそりと畳の匂いを嗅いでいました。それでも、やっぱり、何故か祖母にすぐ感づかれ、叱られてしまう。なんでだろうと、不思議に思いました。どう考えても見られていないはずなのに。

(中略)

また、時々近所の人がくると「近所の林でとれた」と、アケビを持ってきてくれて、普段よく食べる果物とはまた違った、微妙で不思議な味わいが、とても珍しくて、三つも四つも食べていたら、やはり祖母に叱られました。いつも穏やかな祖父は、そのときも楽しそうに笑っていたっけ。

そういったことも、他のことも、あのころのことは、みんな、みんな、妙にはっきりと覚えています。

ー『CARNIVAL』

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理紗がこうした原風景を思い出すのは、本編中で武に首を絞められ瀕死になる場面のみである。 ボロボロになった状態で原風景を思い出すという構図は、学だけでなく理紗にも共通している。

 

『CARNIVAL』のラストで学は、小さな頃にみたものは幻なんかではなく、いまでも変わらずあるものだと、世界を肯定するのだった。

「世界は残酷で恐ろしいものかもしれないけれど、とても美しい。思えば、そんなこと、僕らは最初から知っていたはずなんだ。」

 

5-2.『SWAN SONG』:人は創発である

SWAN SONG』においても、「極限状態やボロボロになった状態で初めて、『人そのもの』や『世界そのもの』を発見」し「それを切実に求めたり強く肯定する」という構造がみられる。そして、それは原風景とまではいかないにせよ、幼少期の記憶を基にしている。

 

まず、終盤において教会へ向かう途中のシーン。

尼子司は瀕死状態であり、意識が朦朧とし始める。 

このまま僕の生物としての機能はどんどん失われていくのだろう。少しずつ、僕を構成していたものたちは、僕を形作ることをやめて、元々そうであったようにただの物質へ帰ってゆくのだ。そして最終的に僕は消えてなくなる。二十年ちょっと前に何かのいたずらで組み上げられた僕は、またバラバラに分解され世界に還元されるのだ。

なんだか寂しいな、と思った。

そして、無性に昔のことが思い出された。

そして過去の回想に入る。昔のこととは、天才指揮者である父のオーケストラの演奏を聴いた時の思い出話のことだ。

他の人はどう感じたのかはわからない。でも、まぎれもなくそれは最高の演奏だった。どうして人間はこんな演奏が出来るのだろう。

(中略)

父は今日の公演を葬式だと言っていたが確かに何かが死んだようなそんな気分だった。僕はどうしてそう感じてしまうのだろうか。

オーケストラを構成する演奏者。彼らはそれぞれ別の場所に行くだけで、誰一人いなくなるわけではない。彼らに会おうと思えばその機会はあるだろうし、それは何でもないことなのだ。どう考えても、形ある何かが減ったわけでも、失われたわけでもない。なのに、妙に寂しいのはなんでだろう。誰かと別れてしまうような、変な気持ちがするのはなんでだろう。オーケストラが死ぬ。それはどういうことなのだろう。もう同じ演奏を聴くことが出来ないって、それだけじゃない、もっと深い意味があるような気がする。

その答えはきっと、今日の素晴らしい演奏のなかにあるのだ。彼らは本当に素晴らしかった。

(中略)

少年時代のあの気分と、いまの僕の気分がとても良く似ている。

昔は、「オーケストラ」という有機的な集合体がバラバラになって「人」という要素に還元されてしまうことが、寂しかった。今は、「自分」という有機的な集合体がバラバラになって「ただの物質」という要素に還元されてしまうことが、寂しい。

 

司にとって、何かが有機的に繋がっていることは、素晴らしく、最高なことなのだ。

だから、有機的な連なりである全体がその構成要素に還元されてしまうことを、寂しく思うのである。

 

物語は進み、司と柚香は遂に教会に辿り着く。そこにはあろえが破片を接着剤でくっつけて再現したキリスト像の姿があった。しかし、あろえはコンクリートの下敷きになっており、既に息絶えていた。柚香はそれを見て泣き崩れ、そして心が決壊する。

 「こんな世界に私は生き残ってしまって、みんなが大事にしていた貴重な生命を、私なんかが無事のまま持たされて、だから大事に生きていかなくちゃいけないって、私にはその義務があるんだって、それはわかるんです。でも私には、ここで生きることの意味が、どうしてもわからないんです。生きていることが、喜べないんです。」

 自分の生きている意味が分からないと嘆く柚香に対して、司はこう返す。

醜くても、愚かでも、誰だって人間は素晴らしいです。幸福じゃなくっても、間違いだらけだとしても、人の一生は素晴らしいです」

人は生きているだけで素晴らしい。上でも述べた通り、「ただの物質」が有機的に組み合わさって「人」が出来るということは、それだけで素晴らしいことなのだ。

 

全体とは、部分の総和以上のなにかである。全体とは全体であるというそのことだけで素晴らしい。勿論、人も。

人は創発*5。である。だから、素晴らしい。

 

そして司は、あろえが手ずから再現したキリスト像を立てようと柚香に提案する。

「見てくださいよ、この像を。あちこち歪んでますよね。なんだか不気味でさえあります」

「でも僕、これは好きだな。宗教的なものって、どっちかと言うと嫌いなんですけど、でもこれは悪くないです。やっぱりそれは、あろえが手で一つ一つ貼り付けたからだと思うんですよね。綺麗ではないけれど、すごく、いいと思うな」

「神の子なんか関係ない。これは、いまはもういない僕の友達がその小さな両手で丹念に一つ一つ組み上げた手あかのついた石のかたまりだ。僕は誇らしくてしかたがない。だから、絶対に立ててやる。そして、このやたらにまぶしすぎる太陽に見せつけてやるんだ。
僕たちは何があっても決して負けたりはしないって。」

ー尼子司/『SWAN SONG

 

SWAN SONG』では、今際の際の司はあろえが作ったキリスト像を突き立て、ボロボロになっても一番必要なものは何も失っていないと、人間そのものを肯定した。

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5-3.『キラ☆キラ』:このくそったれな世界との邂逅

主人公の鹿之助にも自己の希薄性がみられ、それは「きらりEND1」の根幹を担う。

『キラ☆キラ』の冒頭部分、彼女から別れを切り出されるシーンで、鹿之助は元彼女という他人の目から見て次のように評されていた。

「自分がそうだからって、他人もみんな裏があると思ってるところとか」

「人のことばっかり考えてるふりしてるけど、本当は自分のことばっかり考えてるところとか」

「理屈としては正しいことを言ってるのかもしれないけど、言われたくないことをたくさん言うし」

「大事なことでも、言うときによってコロコロ変る」

「要するに、心がない」

 作中において、鹿之助の離人的な兆候はいたるところで現れる。

「一般的な人が喜びそうなときは喜び、悲しみそうなときは悲しみ、人が言いそうなことを選んで言う。
本当に嬉しいときや悲しいときは、それが場違いな感情でないか考えてから、行動する。」

「本音を口にしたことがない」

「(物心ついてから)涙を流したことがない」

「まあ、わからん。もしかしたら、就職活動するかも。いずれにせよ、何だって良いんだ、俺の場合は。気の向くままにやっていくよ」

 

鹿之助がここまで徹底的に自己をコントロールするようになったのは、幼少期の複雑な境遇が故だった。自分の存在が無条件に肯定されるものではなく、自分が存在することで他人に迷惑をかけているという強い思いがずっと胸の奥にあった。

他人に愛されないのならば、存在していて不都合ならば、せめて透明な存在にならなくてはならない。見えない存在にならなくてはならない。そうして、鹿之助は自分自身の感情を押し殺して生きてきた。

 

そんな鹿之助であったが、第二文芸部でのバンド活動を通じ、世界に変化が訪れる。

きらりというフィルターを通すことで、間違いなく世界は「きらきら」に輝いて見えていた。(共通部)

ステージライトの輝きは、暗いところに突然現われたせいか、文化祭のあのときの太陽よりも、ずっとまぶしく感じられる。あまりにも輝きすぎているものだから、僕はなんだかそこに入ってはいけないような気がして、そこで足が止まってしまった。
すると、僕を呼ぶ声。
「鹿クンっ!」
いつのまにかステージにあがったきらりが、明かりのなか、僕を振り返っていた。
「何やってるの! 早くおいでよっ」
光の中からきらりは呼び、一歩近づいて、僕の手を取った。
彼女が手を引っ張ると、僕の全身は魔法が解けたように軽くなった。

  

しかしながら、きらりEND1では、不遇な境遇から生じた悲惨な心中によってきらりを失ってしまう。

言ってしまえば、第二文芸部としての活動中、今まで自己を規定できなかった鹿之助はきらりに規定されていた。きらりが傍にいなければ、鹿之助は元に戻ってしまわざるをえない。

(きらりが死んだ直後、きらり家焼け跡にて)

僕は、自分が再び自分に戻っていくのを感じていた。
結局、きらりの目を通さなければ、僕には何も美しくは見えない。

その後、学校を卒業し定職にも就かず、5年間フリーターとしてバンド活動を惰性で続ける鹿之助。身も心も徐々に疲弊していき、きらりの幻覚も見えるようになってくる。

そんな状況での鹿之助の心情は、きらりの墓参りに行ったシーンの独白から読み取れる。元々あった鹿之助の自己の希薄感が戻ってきてしまっている。

先に死んだのはきらりで、僕は生き残ってしまった。そして、生き残ったにも関わらず、相変わらず僕はこの世界でなにも見つけられずにいる。

いま僕はバンドをやめて、仕事を探そうと思っているが、それだって、僕がしたいからそう決めた訳じゃない。家族がかわいそうだなと感じたからそう考えただけだ。

きらりだったら、けしてこんな曖昧なことはしないだろう。本当は、僕は、自分自身がやりたくて、そして周りの人も幸せになるような、そんなことが出来ればいいのに。

ー前島鹿之助/『キラ☆キラ』

 墓参りの後、「学校に忘れ物をしちゃったから鹿くんに代わりに取ってきてほしい」と、きらりの幻覚が言う。鹿之助にとって学校とは、きらりとの思い出が詰まったかけがえのない場所だ。だからこそ、鹿之助の心にとって良くないものがあるに決まっているのだが、この先タフに生きていくのであれば自分(幻覚)なんかに負けていてはだめだと、行くことを決意する。

 

忘れ物を取り戻すには一番の想い出の場所に行かなければと幻聴に唆される鹿之助。第二文芸部の部室などを通り過ぎ、きらりに連れられて向かった先は屋上だった。一歩一歩階段を上っていくにつれ幻聴は大きくなり、子供時代のトラウマを掘り起こす。

「何もすることがなくて、毎日楽しくなかったって言ってたけど、それはいつごろからだったか覚えてる? ねえ、それは妹ちゃんが生まれて、親が相手してくれなくなった時から? それとも、男の子と女の子がわかれるようになって、千絵ちゃんと遊べなくなってから?」
「じゃあ、そうだ。そういうのを寂しいって思うのは弱くてみっともないことだからって、我慢ばかりしすぎて自分を抑え過ぎちゃったから、心が渇いちゃったのっ? ねえ、それが原因?」
「わかった、じゃあ、あれだ。お母さんが今のお父さんがホンモノじゃないって言ったときでしょ? お母さんは言ったよね、『お父さんが居た方がその方があなたも嬉しいよね』って、だから、自分は嬉しがらなくちゃいけないと思った鹿クンは、自分の気持ちを捨てちゃって……
あのね、鹿クンはやっぱり、少し忘れものを取り戻さないといけないんだよっ。このまま進んでいったらオカしくなっちゃうよ

ー前島鹿之助(椎野きらり)/『キラ☆キラ』

正しい何かを思い出す光を求めドアノブを回すとそこは、あり得ないことにきらりが死んだあの場所だった。

焼け跡には、僕が放り捨てたラケット、ベース、テープレコーダー(注:鹿之助が過去に少しでも「きらきら」出来たことの列挙)が散らかっている。

どれも、とても大事なものの筈だが、今の僕には、それらは、何一つ役に立たないのだ。もう一度手に取ってみようと思ったが、思った途端、見る見るうちに黒く焦げて、他のがらくたと区別がつかなくなった。掴んでも、手の中に黒い消し炭が残るだけだった。

(中略)

痛くてたまらない。気持ちが落ち着かず、ざわざわとする。呼吸が荒いまま、整わない。胸が爆発しそうだ。

どうしてなんだ?どうして、死んでしまうんだ?どうして二度と戻らないんだ?

こんなの、受け容れられるはずがない。そんなの、出来るはずないじゃないか。どうして僕はこんなひどいものと仲良くしようとしていたんだ。

喉から変な声が溢れて、涙がボロボロとこぼれて、気がつくと僕は、どうしようもなく泣いていた。音がないからわからないが、きっと、すごい声が出ているのだろう。

コントロールを外した自分がいやだったけれど、どうすることも出来なかった。子供のときだって、こんなに激しく泣いたことはないのに。

 地面につっぷしたとき、パリンと何かが割れて、そこではじめて自分の声がきこえはじめた。そこで僕は目が覚めた。

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鹿之助はようやく、今まで抑え込んできた自分の声と直面する。

涙を流さず、怒りを発さず、悲しみをもらさず、全てをコントロールして抑え込み、感情を「忘れ物」として置き去りにしてきた自分の生き方を、はじめて否定した。きらりの死に心を動かさず、その状態を受け容れるなんて、そんなの出来るはずないじゃないか、と。

 

鹿之助は自分の感情という「忘れ物」を取り戻した。

本当の意味で自己を規定できるようになり、自分の生を、自分で引き受けることができた。

きらりというフィルターを通さずとも世界のヴェールを剥ぎ取り、ありのままの自分と向き合えるようになった。

 

そして、自室で目を覚ました鹿之助は、美しいありのままの世界と対面する。

自分の感情を徹底的にコントロールし泣くことを忘れてしまっていた鹿之助の姿は、もうそこにはない。

だけど、妙に胸がすっきりとしていた。そして、なんだか体が軽くなったような気がする。

大泣きしたら気持ちが落ち着くというけれど、本当なんだな。嘘みたいに気持ちが穏やかで、ピースフルだ。こんな気持ち、はじめて知った。子どものときは、知ってたのかな。

(中略)

カーテンの隙間から、細い光の糸が垂れている。カーテンを開けると、東の空が白みはじめていた。窓を開けると、外の風と音が部屋に入ってくる。いつもと変わらない朝の風景だが、妙に清清しかった。太陽の光は眩しく輝いて、その白い光は町を神聖な雰囲気に仕立て上げている。

見慣れたはずの景色なのに、生まれてはじめて見たような気分で、何もかもが泣きたいほどに綺麗だった。

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鹿之助は、現実存在としての彼自身の生と向き合うことができるようになった。

きらりというフィルターを通さずとも、世界は綺麗で輝いていた。

とても残酷なことに、きらりがいなくても、実存的在り方を充足できるようになったのだ。

 

ラストのライブシーンでは、生の感情そのものである「黄金色の感情」に言及し、彼は演奏する。命をかけて。今まで自分自身を持たなかった鹿之助には命をかけることは不可能だったが、遂に彼はそれが出来るようになったのだ。
ただそれとして在り、輝きだけでなく悲しみも内包するありのままの世界に向けて、誰のものでもなく正真正銘自分自身の「感情」を込め、鹿之助は演奏する。

ライブの中には沢山の感情があります。何と言ったら良いのでしょう? とにかく、たくさんの感情。悲しいとか嬉しいとかになる前の原液のような、全部がつまってぴかぴか輝いた黄金色の感情です。

演奏がはじまると、自分の中からもドクドクとあふれ出すのがわかるのですが、こういう感情は、どこからやってくるのでしょうか? とても、僕の中にこんなに輝くものがあったとは、思えません。

きっと、どこか良い場所に、全人類の感情を貯めたダムみたいのがあって、そこから一人一人にパイプで送られてるのかなと、そんな妄想が止まりません。

とにかく、この感情を少しでも、他の誰かに伝えたいなあと、ステージの上ではいつも、そう思っているのです。

こんなに物覚えの悪い僕が今からお届けする曲は、みなさんの明日と、そして、僕ら自身の明日に捧げる、キラキラの曲です。

どうか、聴いてください。

命をかけて演奏します。 

 

『キラ☆キラ』で鹿之助は、自分の生を初めて自分自身で引き受け、人生を肯定できるようになった。

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6.まとめ

最後に、この記事の今までの流れを簡単におさらいしておきたい。

1節では、「極限状態やボロボロになった状態で初めて、『人そのもの』や『世界そのもの』を発見」し、「それを切実に求めたり強く肯定する」という点が瀬戸口作品の共通点として挙げられることを提示した。そしてそれは、他の虐待を描いた作品や実存主義文学にも見られるのだった。

2-3節では、簡単に実存の説明をし、虐待児を描いた作品と実存主義文学と呼ばれるものには「ヴェールを剥ぎ取られたありのままの世界と出会う」という共通点があることを具体例を用いて例示した。

4節では、自己の希薄性も共通点としてみられ、それが「ヴェールに覆われた世界からそれを剥ぎ取る」という似た構造がみられることの原因である可能性を示唆した。

5節では、具体的に『CARNIVAL』『SWAN SONG』『キラ☆キラ』の3作品がどのような物語だったのかを見ていき、特にその中でどのように実存主義が表現されているかについて触れた。

 

よくわからない共通点をいきなり上げたり、実存主義という耳慣れない言葉に触れるなど、妙な雰囲気のまま書き連ねてしまったが、一番力点を置いたつもりなのは5節なのでそこの雰囲気だけでも伝わっていればと思う。瀬戸口廉也作品の肯定の仕方が、自分にとっては感じ入るものがあるし、やはり好きだ。

 

 

 

 

 

ここからは、瀬戸口作品を好む個人的な理由を綴っています。

瀬戸口作品と同じような構造を持つ実存主義文学は20世紀初頭くらいにはその兆しを見せており、だいだい100年くらい前からこういうものがあったことになる。ということは、こういう形での実存に関わる話題には、ある程度普遍的な側面があるのだろう。

とはいえ、子供時代からほぼ全員がSNSに常時接続される現代において、自分の中での瀬戸口作品の価値がますます上がっているように感じている。

なんというか、今生きていると、「何者かにならなきゃいけない」「それ以外はみんな偽物」みたいな風潮ありませんか?何か得意なことをネットで表明しても、広大なネットの海にはさらに上の人が存在して、それが他人にも可視化されてしまっているので他の人につつかれて終了する。しかもたちの悪いことに、全国レベルの人もSNSをやっているので、何かを表明して一目置かれるためには年齢に関係なく相当上のほうに属してないといけない。

小学生時代、仲がいい友達5人の中で一番上手かったことは十分すぎる特技だった。自分のカービィが仲間内で最強で、そしてあの日、確かに世界最強だった。 

しかしながら現代では、「ある物事に精通している自分」という自我を獲得するための敷居が非常に高くなってしまっている。プレイ数50本のエロゲソムリエという呟きが流れてくるのを見て、心の中で叩いてしまった経験ありませんか?少なくともこのブログを見ているようなオタクには、あるだろ。

"いや、そんな外野のことなんか気にせず好きにすればいいじゃん"という意見はもっともで、それをやり続けられる人は本当に強いのだと思う。けれど、結構人生つっこんで一生懸命やってることを見ず知らずの他人に叩かれたら、やっぱり何か思うところがあるじゃないですか。しかも、それを叩く人だってある程度人生を突っ込んだからそうするのであって、言ってみれば叩く側の自我同一性にも関わっているから事態は深刻なわけで。

 

このように、SNSによって自衛不可能なほどに境界が広がっている現代では、「何者かである自分」という自我を獲得するためには相当な闘争が必要で、そこから逃げるのにも一苦労する。だからこそ、何者でもない、ありのままの自分や世界を肯定する物語に救われたり、背中を押されることがあるのだと思う。最近の自分が『CARIVAL』や『SWAN SONG』や『キラ☆キラ』を好む理由は、ここにある気がする。

 

 

 

*1:基本的に、瀬戸口作中では虐待という単語は直接的には出てこない。理由はいくつか考えられるが、当人にとってそれを虐待だったと認識することは、非常に難しい問題なのだろう。

*2:わざわざムズカシソウな単語を持ち出して説明するのも、ここではそうするに足る理由があるからだ。決して、物語の読解に何でもかんでも実存主義を持ち出してくるヤベー奴だからではない。(ヤベー奴の例としては、アニメに対してすぐエヴァを絡めて語りだしてくるのを想像するとよい。)

*3:この考えを出発点として、実存主義は様々な広がりを見せていく。

中でも一番アグレッシヴな主張は「世界には実存しかなく、そこに意味は無い」といった虚無主義であり、少しマイルドになると「物事の意味(本質)は全て社会によって構成されている」といったものがある。

このように、多少悲観的な発想に繋がってしまうことが多く、実存主義文学にもその風潮がある。今回取り上げる作品群も、このように淡々と悲嘆に暮れる作品が多いが、実存主義悲観主義ではないことを強調しておく。後期のサルトルなどが「だからこそ、実存である人として、積極的に世界を意味付けし直していこう」という前向きな姿勢で社会に関わっていったように、実存主義は決してニヒリズムに終止するものではない。

*4: 念のためではあるが、「瀬戸口作品は実存主義文学だ!だからすごい!」なんて言いたいわけではない。

*5:創発(そうはつ、英語:emergence);部分の性質の単純な総和にとどまらない性質が、全体として現れること