一二三四五六七

その時に感じたことを書きたいです。

『SWAN SONG』感想

「醜くても、愚かでも、誰だって人間は素晴らしいです。幸福じゃなくっても、間違いだらけだとしても、人の一生は素晴らしいです。」

 

ー尼子司/『SWAN SONG

 

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SWAN SONG』(2005-07-29)

ブランド:Le.Chocolat

シナリオ:瀬戸口廉也

公式サイト:[ Le.Chocolat ] - SWAN SONG

 

かなり的を絞った感想になるため、想定する読者も既プレイ者としておく。

故に、ネタバレは気にせずバンバン突っ込んでいくが、予めご了承いただきたい。

また、宗教上の理由でTrue√については一切触れない。

 

主に「尼子司はどうして今際の際に人を肯定したのか」について書く。

あろえの存在意義や、"SWAN SONG"が指すものについても少し触れる。

 

 

人は創発である

 ~あらすじ~
物語はクリスマス・イヴの晩、大地震が発生したところから始まる。主人公である尼子司を含め、何とかして生き延びた若者6人が倒壊を免れた教会に集う。

援助がいつまで経っても訪れない為、外部と接触しようと6人は移動を開始し、遂に自分たち以外の生存者が避難している学校に辿り着く。
これで一安心……していたのだが、その安心も長くは続かなかった。いつまで経っても援助は訪れず、外部との通信すらいまだに出来ない。
徐々に環境は逼迫していき、人間関係に軋轢が生まれていく。そして……

 

Normal√では、様々なすれ違いの末に、避難所である学校内でも分裂が起き、お互いに殺戮し合ってしまう。不幸にも左手を失った尼子司は、満身創痍ながらも生き延び、昔かつての仲間たちと出会った教会に辿り着く。そして、最期の瞬間にあろえが復元した継ぎ接ぎのキリスト像を見上げながら人生を賛美し、命を引き取るのであった。 

 

まずは、終盤において教会へ向かう途中のシーン。

尼子司は瀕死状態であり、意識が朦朧とし始める。

このまま僕の生物としての機能はどんどん失われていくのだろう。少しずつ、僕を構成していたものたちは、僕を形作ることをやめて、元々そうであったようにただの物質へ帰ってゆくのだ。そして最終的に僕は消えてなくなる。二十年ちょっと前に何かのいたずらで組み上げられた僕は、またバラバラに分解され世界に還元されるのだ。
なんだか寂しいな、と思った。
そして、無性に昔のことが思い出された。

 そして過去の回想に入る。昔のこととは、天才指揮者である父のオーケストラの演奏を聴いた時の思い出話のことだ。

素晴らしかった。
(中略)
他の人はどう感じたのかはわからない。でも、まぎれもなくそれは最高の演奏だった。どうして人間はこんな演奏が出来るのだろう。
(中略)
父は今日の公演を葬式だと言っていたが確かに何かが死んだようなそんな気分だった。僕はどうしてそう感じてしまうのだろうか。
オーケストラを構成する演奏者。彼らはそれぞれ別の場所に行くだけで、誰一人いなくなるわけではない。彼らに会おうと思えばその機会はあるだろうし、それは何でもないことなのだ。どう考えても、形ある何かが減ったわけでも、失われたわけでもない。なのに、妙に寂しいのはなんでだろう。誰かと別れてしまうような、変な気持ちがするのはなんでだろう。オーケストラが死ぬ。それはどういうことなのだろう。もう同じ演奏を聴くことが出来ないって、それだけじゃない、もっと深い意味があるような気がする。
その答えはきっと、今日の素晴らしい演奏のなかにあるのだ。彼らは本当に素晴らしかった。
(中略)
少年時代のあの気分と、いまの僕の気分がとても良く似ている。

 

昔は、「オーケストラ」という有機的な集合体がバラバラになって「人」という要素に還元されてしまうことが、寂しかった。今は、「自分」という有機的な集合体がバラバラになって「ただの物質」という要素に還元されてしまうことが、寂しい。

 

そして赤字太線部には、より直接的な感情が表れている。

司にとって、何かが有機的に繋がっていることは、素晴らしく、最高なことなのだ。

 だから、有機的な連なりである全体がその構成要素に還元されてしまうことを、寂しく思うのである。

 

 

 そして、司と柚香は遂に教会に辿り着く。そこにはあろえが破片を接着剤でくっつけて再現したキリスト像の姿があった。しかし、あろえはコンクリートの下敷きになっていて、既に息絶えていた。柚香はそれを見て泣き崩れ、そして心が決壊する。

「こんな世界に私は生き残ってしまって、みんなが大事にしていた貴重な生命を、私なんかが無事のまま持たされて、だから大事に生きていかなくちゃいけないって、私にはその義務があるんだって、それはわかるんです。でも私には、ここで生きることの意味が、どうしてもわからないんです。生きていることが、喜べないんです。」

 

佐々木柚香/『SWAN SONG

 自分の生きている意味が分からないと嘆く柚香に対して、司はこう返す。

「醜くても、愚かでも、誰だって人間は素晴らしいです。幸福じゃなくっても、間違いだらけだとしても、人の一生は素晴らしいです」

 人は生きているだけで素晴らしい。上でも述べた通り、「ただの物質」が有機的に組み合わさって「人」が出来るということは、それだけで素晴らしいことなのだ。 

 

全体とは、部分の総和以上のなにかである。全体とは全体であるというそのことだけで素晴らしい。勿論、人も。

人は創発である。だから、素晴らしい。

 創発(そうはつ、英語:emergence);部分の性質の単純な総和にとどまらない性質が、全体として現れること。

 

そして、司は「あろえが手ずから再現したキリスト像を立てよう」と柚香に提案する。

「見てくださいよ、この像を。あちこち歪んでますよね。なんだか不気味でさえあります」
「でも僕、これは好きだな。宗教的なものって、どっちかと言うと嫌いなんですけど、でもこれは悪くないです。やっぱりそれは、あろえが手で一つ一つ貼り付けたからだと思うんですよね。綺麗ではないけれど、すごく、いいと思うな」

 神の子なんか関係ない。これは、いまはもういない僕の友達がその小さな両手で丹念に一つ一つ組み上げた手あかのついた石のかたまりだ。僕は誇らしくてしかたがない。だから、絶対に立ててやる。そして、このやたらにまぶしすぎる太陽に見せつけてやるんだ。
僕たちは何があっても決して負けたりはしないって。

なぜ司が突然キリスト像を立てようとしたのか、初めはよく分からなかった。

しかし、今なら分かる気がする。

恐らく、「破片」という要素が有機的に組み上げられることで出来た「像」が、司にとっては素晴らしく、最高だったのだろう。

 

 

キリスト像を立てた後、司は仰向けに倒れる。ピアニストである司は恋人の柚香を泣かせたくないと、最期にこんな事を思うのである。

ピアノさえ上手に弾けたなら、僕は無敵なんだ。何もかもうまくゆく。泣いている柚香にも、あのピアノを聴かせてあげたい。可哀想な柚香のために、最高のピアノを弾いてあげたい。
(中略)
いま僕はとても良い気分だ。こういうときは、最高の演奏が出来るって知ってるんだ。最高の演奏っていうのは、心のなかにしかないはずの美しいものがたくさん外にあふれ出て、そこらじゅうの何もかもを輝かせて、それは本当に、最高で、とんでもなく素晴らしいものなんだ。

 これは独りよがりな私の想像かもしれないが、やはり下線部から”繋がり”を読み取れるように思う。

司にとってピアノを演奏することは、「自分」という要素を「周囲の人間」と繋ぎ合わせることが出来る行為だったのだろう。

人は人であるだけで素晴らしい。そんな「人」同士を、ピアノ演奏という自分の行為でさらに「周囲」と繋げられることは、本当に、最高で、とんでもなく素晴らしいことだったのだ。

 

 

 

 司が最期の時に肯定したのは、人である。

『CARNIVAL』*1で学がしたような世界への肯定ではない。

『キラ☆キラ』鹿之助√で描かれた人生への肯定*2とも少し違う。

SWAN SONG』の司は、全体としての、創発である人そのものを肯定していたのだと思う。

 

私は最初、障碍者である"あろえ"の存在意義が全くわからなかった。

だが、今までの流れを踏まえると、その一端は分かるように思う。

つまり、創発であるという一点において、障碍者である”あろえ”は普通の人と全く同じであり、「人は人であるだけで素晴らしい」という主張をあろえに適用することによって、それを強調する効果があったように感じている。

 

 最後に、タイトルでもある"SWAN SONG"が何を指していたかについても少し触れておきたい。

SWAN SONGとは名前の通り「白鳥の歌」である。これは「白鳥は死ぬ前にもっとも美しい声で歌を歌う」という伝説に基づいて、このような名前を付けているのだろう。

これを踏まえると、SWAN SONGとは「死に際のあろえが手ずから組み立てたキリスト像」を指しているように思う。

司にとって、創発であるものは素晴らしかった。「破片」という要素が有機的に組み上げられた「像」は、すごく、いいものであった。これは「ただの物質」が有機的に組み合わさり「人」が出来るということ、つまり、人が人であることが素晴らしい、という主張に通じる。

今際の際に、障碍者あろえが自らの手で一つ一つ貼り付け復元したキリスト像。そんな"SWAN SONG"を司は賛美し太陽に見せつけた。

それは死に際の尼子司が残した、最大級の肯いであり抗いだった。

 

*1:ここでは小説版での最期を指す

*2:『キラ☆キラ』鹿之助√に人生への肯定を描く部分があったかは、各々に考えがあるとは思う。しかしながら、今回は並列列挙の見栄え上こうさせて頂いた。あくまで見栄え上そうしたのであり、私が必ずしもそう捉えているわけではないことはご承知おき願いたい。