『サクラノ刻 -櫻の森の下を歩む-』をプレイした。とてつもなくよかった。
魂が震えるような作品に出会える喜びは、やはり何物にも代えがたい。
思えば、発売前は大きな期待とほんの僅かばかりの不安が同居していた。
というのも、前作『サクラノ詩 -櫻の森の上を舞う-』の中での伝えたいテーマは既に貫徹されていると感じていたからだ。
芸術家としての直哉がこの後どう芸術に向き合うのか、そしてそれを「刻」でどのように描くのかは、「詩」の終わり方からすると見当もつかなかった。
いや、そもそもそんな事態はありうるのか?という思いすらよぎっていた。
また、「詩」のオフィシャルアートワークスにて、"俗的な幸福像をあえて避けテーマ性を押し出したため、物語的な欠損を生んでしまった"という趣旨のすかぢ氏の発言があった。私は「詩」がこのように終わったからこそ心に刺さったのであるが、氏はむしろそこに問題意識があったように読み取れた。この部分の相違が「刻」の物語に現れないといいなと思っていたことも、個人的には不安要素の一つでもあった。
しかし、本作『サクラノ刻』でそんな不安は見事に吹き飛ばされた。
『サクラノ詩』と地続きの物語として、これしか無いと思わされるほど素晴らしかった。
今回の感想は、そのように思わされた「刻」と「詩」の関係について書ければと思う。
(プレイ後の衝動そのままに書いているので、絞った部分についてしか触れられないというだけであるが……本当は圭と直哉の話であったり、圭と心鈴の話であったり、麗華と静流の話であったり、真琴の話であったりと、書き足りないことは山ほどある。)
Ⅰ~Ⅲ章について
真琴「時間が過ぎ去っていく……。いいえ、そもそも過ぎ去った過去ってどこにあるのかしら。」
直哉「さぁな。俺たちの中にある、としか言い様がないんじゃないか?」
直哉「流れていくもの達を、俺たちは確かに覚えているからこそ……今の俺たちがいるんだよ」
ーⅢ-Ⅱ 「幾望と既望」
Ⅰ~Ⅲ章は、『サクラノ詩』と地続きの物語だ。
「弱い神」、儚い幸福。だからこそ、いつも共に寄り添える幸福。
藍と直哉は櫻の詩を微かに聞きつつ、夢浮坂を下って行った。
そこに圭といた頃の景色だけを見ていた直哉はもういない。
『櫻達の足跡』が再び輝きだした瞬間、標本の蝶が色彩を帯びて再び飛び立ったと思ったその瞬間に、立ち止まっていたわけではなく、櫻の森の下を歩んでいたという当たり前の事実に気が付いたからこそだった。
「俺はまだ、圭といた頃の風景を見ていた」
「もう戻らない。あの頃の二人の姿を」
「そんなものをこの屋上から見ていた」
「けど、それも、もう終わった」
「そんな風景が見えていた時代も終わったんだよ」
「その事に、あの瞬間、やっと俺は、気が付いたんだ」
桜子「あの瞬間?」
「『櫻達の足跡』が再び輝きだした瞬間」
(中略)
「過ぎ去った色彩、その足跡……」
「それが、再び輝き出す……、そんな作品だ」
(中略)
「君達と共にあれを完成させた時、あの作品が再び新しい色彩を発したとき」
「標本の蝶は、色彩を帯びて再び飛び立ったと思った」
「その姿を見たときにーー」
「俺は立ち止まったわけじゃない事」
「歩かなかったわけじゃない事」
「櫻の森の下を歩んでいた事を」
「そんな当たり前の事実に気が付かされた」
(中略)
「ここからは、もう、あいつの姿は見えない」
「だが、それでいい」
ーⅡ 「展覧会の絵」
在りし日が見えずとも、歩みを進めることができるようになった直哉の物語がⅠ~Ⅲ章に相当する。
芸術家としての草薙直哉ではなく、教師としての草薙直哉の歩みである。
・圭との関係が深い心鈴と接するものの、あくまで教師に終始するⅢ-Ⅰ「詩人は語る」
・「詩」の続きとして、真琴と結ばれるⅢ-Ⅱ「幾望と既望」
どちらの√も、「詩」の続きとして*1申し分なく素晴らしい出来だった。
教師か……。
芸術家ではなく教師として……。
俺はそろそろ違った道を歩いていいよな。
「圭」
「俺は、その先に行くよ」
ーⅡ 「展覧会の絵」
しかし、これらは『サクラノ刻 -櫻の森の下を歩む-』という作品に含まれてはいるものの、その内容の意味では「詩」の続きだと捉えている。
つまり、ここまでは「刻」ではなく「詩」の続きであるのだ。
(本感想としての領分ではないので今回記述は避けざるを得なかったが、勿論静流と麗華の関係性も最高であったし(むしろ新規部分としては圧倒的に一番好き)、放哉と寧などもあわせ「刻」に繋がる部分も同時並行で進行していたことも併せて記しておきたい。)
一方、教師としての道を踏み外し、芸術家としての草薙直哉になっていくのがⅢ-Ⅲ「禿山の一夜」の最終部分である。
そして、そのまま圭の過去編であるⅣ章に突入し、それが終わると同時に『サクラノ刻』のOP曲が流れ、タイトル名を冠したあの一枚目がばっと出る。
この瞬間こそが『サクラノ刻』という作品の始まりなのである。
Ⅳ章「Mon panache!」
芸術家としての草薙直哉が確固たるものとなるのは、Ⅴ章「D'où venons-nous ? Que sommes-nous ? Où allons-nous ?」であるが、圭の過去編である4章についても見逃せない。
これは、圭の視点から見た『サクラノ詩』であるからだ。
風景は流れる。
流れる。
流れる。
音楽もまた、
流れる。
流れる。
風景も音楽も流れていく。
世界と音楽は等しく流れていく。
だから、この世界は詩なのだと思う。
(中略)
心鈴「流れ行くもの!通り過ぎていくもの!すべての過ぎ去るもの!それらがとても素晴らしいです!!」
心鈴「すべてが美しく笑って見えます!」
ーⅣ「Mon panache!」
ただ一つの仕事を成し遂げるために無知の人となった彼は、健一郎との出会いによって、流れ通り過ぎていくすべての素晴らしきものによる世界、時間、人生を過ごした。
その瞬間こそが永遠であり、瞬間の様な刻だったからこそ、生涯すべてを『二本の向日葵』に描き込むことができた。
そして、圭は直哉に追いつき、追い越したのだ。
ああーー風景が流れていく。
素晴らしい風景達。
俺の生は、すべての流れゆくものによって、満たされていたんだ。
だから、その先でーー
直哉ーー
たぶん、俺はお前に追いついたよ。
ー夏目圭
Ⅴ章「D'où venons-nous ? Que sommes-nous ? Où allons-nous ?」
直哉「失ったものの先で、俺が再び描くという事は、そういうことなんですよ」
「永遠と一瞬は変わらない。」
「流れるもの達を感じるとは、その事実に立ち止まることだ。」
「だから俺は刻み続ける。」
ー草薙直哉
『サクラノ詩』を経た上での芸術家としての直哉はここから始まる。
この大きなキャンバスで、直哉が描こうとしたもの。
それは遠い記憶から今に至るまでの道のりであり、遥か彼方からここまで来た感触すべてであった。
流れていった風景達であり、すべての音楽であり、すべての記憶であった。
それらすべてをキャンバスにのせるために、これほど大きなものでなくてはならなかったのだ。
そしてそれは、圭を失った先で「弱い神」と共に歩んできた直哉が再び描くという事と同義なのである。『サクラノ詩』を通じた芸術家 草薙直哉が描くとすれば、伯奇の顔料を用いた、まさにこの作品に他ならないだろう。
「少なくとも四万年前には、人は筆を取って描いていた」
「そこには多くの感情がある」
「何万年経った後の俺達にも、その絵画達は語りかけてくる」
「だから、人の夢、人の心、人の想い……」
「喜び、怒り、哀しみ、楽しみ、祝福、呪い……」
「そんなものを凝縮させる伯奇の力は、最高の顔料になったのだろう」
しかし、すべての記憶を描き込んだその巨大なキャンバスは、燃えつきてしまう。
だが、その時直哉は初めて分かったのだ。
「時間の流れで、たしかに沢山の想いが生まれて消えていった」
「時の流れは残酷で、それこそどんなに轟音で奏でた音楽ですら、無限の大地に霧散してしまう」
(中略)
「けどさ、違うんだ」
「永遠をたたえた大空で、消えてしまったはずの音たちは」
「それでも確かにあったんだ」
「そのすべてが、今、ここにあったんだ」
「だからこそ、この大きさでいいんだ」
圭が向日葵を描いたキャンバスほどの大きさで、十分だったのだ。
稟と雫が*2爆ぜるほどの痛みを引き受け直哉のために絵画を描き、道を示してくれていた。
この絵画には確かに苦痛が伴う。比喩ではなく血が伴うものとして。
しかし、それでもやはり喜びがある。愛おしい痛みがあるのだ。
「大音量でなったロックが、大空に消えていく様に」
「俺が愛した痛み達も、大空に消えていく」
「それは流れていくんだ」
「どんな痛みでも」
「そんな哀しみでも」
「それをどれほど愛おしいと感じても」
「それでも桜の痛みは、森の上を舞い上がり」
「そして消えていく」
「ツバメの軌跡」
「王子の心臓」
「それが彼女たちの祈りだ」
夢水によりそのキャンバスは発光する。
透明な光の桜が吹き上がり、全ての記憶と感情が次々と現れる。
氷川里奈の糸杉、藍のような疾走、明石、稟と雫 etc,
弱い人間だからこそ、「弱い神」と寄り添える。
直哉も圭もだからこそヒーローになりえた。
そして、弱い音符だからこそ二人は重なることができたのだ。
桜で始まった直哉の絵画は、圭の始まりである向日葵によって終わる。
永遠の絵画は咲き乱れ、最果てで再び出会ったーーー。
「俺の生は、すべての流れゆくものによって、満たされている。」
「刻が流れていく。」
「それは桜の刻。」
「懐かしい日々。」
「懐かしくありながらも、ここにある日々。」
だから、その先でーー
俺はその言葉を口にした。
ここに、"刻"と"詩"の関係が現れる。
・流れゆく懐かしい日々、すわなち"刻"。それは懐かしくありながらもここに"詩"となる。
・『サクラノ詩』を経た草薙直哉だからこそ描けるものを描いた作品こそが『サクラノ刻』である。
そして、Ⅵ章「櫻ノ詩ト刻」を以てこの作品は終わる。
そこで描かれるテーマは、『サクラノ詩』のものと同じものであり、なおかつ、『サクラノ刻』を通じた『サクラノ詩』でもあるのだ。
奔る、奔る、奔る、刻が奔る。
そして無尽の世界にその音は消えていく。
それでもこの音は重なり合い、響いていく。
刻は流れてーーそしていつか詩となる。
サクラノ刻は、詩となる。